幼少期
これは私の意見に反した事で、レッスンで先生に 「合格おめでとう!」 と言われた際 「私はいきたくない!」 と駄々をこね、 「でも入学金をもう払ってしまったのよ」 という先生の言葉には 「じゃあ返してちょうだい!」 と言ったほど行きたくありませんでした。 サラリーマンと一緒に満員電車に揺られて、あんなに 遠くの学校に通うよりも 近くで友達をたくさん作って 遊びたかったんです。しぶしぶ入学した私に 忘れ難い先生との出会いが待っているとは この時は思うよしもありませんでした。その先生、ウラジーミル竹内先生にお会いするのは12年後の事です。
竹内先生との出会い
見るからに 「ウラジーミル」 。
ペトラルカ の ソネット から学んだこと
リストの「ダンテを読んで」や、「メフィストワルツ」といった曲は、カッコいい!と思っても、叙情的な曲には当時の私は全くと言っていいほど興味がありませんでした。それどころか、恋だの愛だの、惚れた腫れたは気持ち悪い・・・などと思っている始末で、年頃の女の子が憧れる世界が、当時の私には理解出来ずに、というかする気持ちもありませんでした。そんな子に、初っぱなからペトラルカのソネットを与えるとは。
今では、わかります。最初にワルトシュタインを聴かれた時に、この子に足りないものはこれだと、先生にはすぐにお分りになられたのでしょう。
訳の分からない私には、この美しい音楽を、音を出すだけでも恥ずかしい!
居心地の悪さを感じながら、もぞもぞクネクネと弾いた挙げ句、先生に、「三連符と二連符はこうあわせるんだよ」とばかりの縦線を楽譜に書かれる有様。(滅多な事では、先生ご自身の手で、生徒の楽譜に書き込みをなさらない先生でしたので、今では貴重な縦線となりましたが。)
翌週もレッスンをして頂きましたが、演奏は少しも良くならず、私の化けの皮が剥がれるばかり。もう、勘弁してくださーい。と泣きたい気持ちになったら、「じゃあ、来週は104番持ってきて。」
これでは、番号が変わるだけで、演奏は変わらないまま。途方にくれました。思えば、三才からピアノを弾いてきて、これまでこんなに困った事はありません。先生に、弾けと言われ、弾けない事などありえません。今までは、おこがましくも、何でも弾ける、位に思っていました。でも、今思えば、それは単に文字通りに「ただ弾いている」だけだったのです。これに気付くまで、そして少しずつ良くなっていくのに、恥ずかしながら何年もかかりました。竹内先生は、何年にも渡り忍耐強く、演奏でただ音を出している箇所があると、「もっと考えなさい。」とか「もっと頭を使いなさい。」と指摘して下さいました。仕舞には、ただ一言、「頭!」と言われる事も。あんまり、頭、頭と言われるもので、「先生、私はそんなに頭が悪いんでしょうか?」と尋ねた事もありました。音の高さ、長さ、強弱、アーティキュレーションなどなど、思いつくものは正確に音に出しているはずなのに、他に何か考えないで弾いてしまったかしら?と思い、このような馬鹿げた質問をしたのですが、先生はただ可笑しそうに笑っていらっしゃるだけでした。
大きな手と小さな手
ある時、先生はレッスンでこう話し始めました。「僕がピアノを弾くと、みんな僕の手を誉めるんだよ。誰も僕の頭は誉めてくれない。」とため息混じりに、そしてちょっと忌々しそうに。
「それはそうですよ。だって、とても大きくて立派な手なんですもの。」と私が言うと、「手が大きくても、下手な人は下手だよ。オクターブだって大きければ巧く弾けるとは限らないよ。」とおっしゃっいました。先生の手はとても大きな手で、最近年の性で少し縮んだとはいえ、CからFまでは届きます。ですが、熊のような、という形容詞は相応しくありません。だってスラッとした長い綺麗な指で、おまけに色白。よく隣で弾いて下さいましたが、その度にがっかりしてしまう程いい手をしていらっしゃいました。「僕の手より大きなピアニストなんて沢山いるよ。クライバーンなんてCからG迄届くし、ポゴレリチなんてCからHまで届くらしいよ。」
「冗談ですよね。」と言うと、「本当らしいよ。アリョーシャ(アレクセイ竹内さん)がポゴレリチから聞いたんだから。」とおっしゃっていましたが、想像もつかない大きさです。
あまり大きな声では言えませんが、私の手は小さな手です。それも多分、「とても」がつく程。いつも母は私の手を見ると「可哀想にねえ。」と憐れがっています。でも、手は小さくとも負けん気だけは大きな私は、「手が小さい」「背が低い」「足が短い」などと言われると、ムカッとします。竹内先生にも、今に言われるだろうと思ってはいましたが、とうとう亡くなるまで一言もこの言葉を聞くことはありませんでした。言ってくれないとなると、今度はそれも面白くないなあ。と、「私は手が小さいんですよ~。」と自分から勝手な事を言ったりしました。すると、「そんな風に見えないよ。だいたい、あんたみたいに女の子で大きな音を出す子は僕見たことないよ。ママ先生以外にね。あんた、何かやってたでしょ?」とおっしゃっるので、「掃除や洗濯ですかね。」と返答すると、「違うよ。運動だよ。」ふーん。運動ねえ。自己流なら、スキーにスケート、バレーボールにバスケット・・大好きです。しかし習ったとなると・・。そうだ、思いつきました。「中学生の頃、ほんの一時期ですが剣道を少々。」と言うと、「それだよ!それ。剣道がよかったんだよ。」さて。剣道の何がいいのか。私にはさっぱり分かりませんが、しかし気分だけは話に乗ってきたので調子づき、「ついでに、やったと言える程のものではありませんが、テニスも少々。」と言うと、「テニスはピアノにいいんだよ。ゴリデンウェイゼルは、ピアノにいいといって、生徒とよくテニスをしたんだよ。」と。その時は私もその気になって、いい事をしていてよかった!と単純に思いましたが、果たしてテニスや剣道がピアノにどういった効果をもたらしたのかは不明です。
とにかく、先生はピアノを弾く小さな私の手を見ても、憐れむどころか、「あんたの手はピアノを弾いていると、大きく見えるね。小さいだなんて、言いさえしなきゃ誰にも分からないよ。」とおっしゃってくださいました。この話を思い出すと、だからやっぱり竹内先生のことが好きって思います。何故なら、人の欠点よりも、まず先にいい所を見つけて下さるからです。最後に、先生の言葉を。
「どんなにひどい演奏をレッスンで聴く時でも、まず先にいい所を聴くんだよ。あんたも教える時はそうするといいよ。だから、ピアノの先生は忍耐が必要だね。」
命日
今年もまた竹内先生の命日が近づいてきました。もう8年も経ちますが、あの日の事は今でも昨日の事のように思い出されます。
2004年2月25日は、国立で教えていました。レッスンも終わり、さて帰ろうと思った時に携帯が鳴りました。自宅の母からです。アメリカの先生のご子息、アリョーシャから電話があり、先生が亡くなられたそうだとの事。母もよく聞き取れなかったようで、パパ先生、ママ先生のどちらかが亡くなられたのか分からないと言っていました。榊原記念病院に搬送されたそうなので、大急ぎで新宿に向かいました。すると、病院は移転しており、今度は慌てて移転先の府中に向かいました。その間、パパ先生、ママ先生のどちらもご無事で、と祈り続けていましたが、残念な事に病院で知らされたのはパパ先生でした。
この日が来る事は、ずーっと前から分かっていました。先生は私に、こうお話をして下さいました。「僕とママはよく二人で話すんだよ。アンタ達は僕らが死んだらどんなに悲しむだろうって。でもね、僕達が死んでも悲しんだり泣いたりしては絶対ダメなんだよ。困るんだよ。」とちょっぴり恐い顔でおっしゃいました。なので、この言い付けを今でも守っています。とにかく楽しい事が大好きな先生で、ご自身はもとより、私達にも楽しい気持ちでいられるようにと、いつでもあの手この手で、細心の注意を払って楽しませてくれた先生です。だから、やはり思い出すのは楽しかった事ばかりです。
先生の葬儀も終わり、ママ先生と二匹の猫がアメリカに行き、先生の家に住人がいなくなった後、片付けをしに度々先生のお宅に行きました。先輩の村田さんや、私の生徒が一緒に手伝って下さることもありましたが、大抵一人です。”このレコードは、リヒテルの演奏しているラフマニノフのプレリュード。それから、これはソフロニツキのレコード。ロシアに旅行に行った時、直前にソフロニツキが亡くなり、会えなかったのがとても残念だと先生おっしゃっていたなあ・・。”などと思い出のある品々に手が止まり、流石に一人で片付けをしていると悲しい気持ちになってきます。そんな時、壁にあった写真をはずすと、額の裏からヘンテコな絵が!(竹内先生は、サッと走り書きで絵を書くのがとてもお上手でした。私も、歌の伴奏をしているみえこさん、という絵などを書いてもらいました。歌っているのは、ブタですが。)そして、ノートをパラパラとめくると、そこには1-4、2-4、3-4ウマレンなどと書いてあるではありませんか。こんな時まで、天国から笑わせよ
うとしてくれているんだな、と優しかった先生を思いながら笑っていました。
とても不思議に思う出来事が、亡くなられた時刻の頃にありました。先生がご自宅で倒れられた頃、私は中学生の女の子のレッスンをしていました。その子は、学校で合唱の伴奏を頼まれたと、合唱曲をレッスンに持ってきていました。「聞こえる」という題名の、新実徳英さんが作曲された曲です。その曲を知らなかった私は、とりあえず、どんな曲か弾いてみるわね、と言い弾き始めました。すると間もなく、得も知れず幸せな気分というのでしょうか。満ち足りた最高に幸せな気持ちになり、その曲を最後まで弾きました。勿論、曲の持つ力が大きいという性もあるとは思いますが、何と表現したらよいのでしょう。何か、生きている事が嬉しいというか、ありがたい、ありがとうのような気持ちです。演奏していて、こんな気分になった事はありません。その後、訃報の知らせがあったのですが、この曲を弾いている時に先生がきてくれていたんだろうと、確信のように思っています。
この話を、翌週女の子にしました。すると、その子は、また次の週に綺麗に装丁した、「聞こえる」の楽譜を私にプレゼントしてくれました。思いやりに深く胸をうたれました。大切な宝物です。
また今年も2月25日がやってきます。今年も先輩からお誘いを頂き、2月27日に横浜の外人墓地に眠る先生に皆で会いに行きます。といっても、先生はここにはいないんだろうなと思います。いつでも思い出す時に傍にいらして下さるような気がします。