はじめに

竹内先生と私ピアノの恩師、ウラジーミル竹内先生が亡くなって7年が経ちました。「アンタは僕の大切な家族であり、友人でもあり、生徒でもあるんだよ。」 とおっしゃっていた先生。いつでも、まず先に話や 演奏を聞いて下さった先生。 今でも思います。奇跡のような出会いはあるものだと。そして、心の奥底の 大切な所で人とつながりを 持つことの 尊さや幸せを 先生は教えて下さいました。
天国の先生にお話したい事を、この場を借りて お話させて頂こうと思います。この話が、音楽をやる、やらないに関わらず、皆様に届き、毎日の生活が音楽的で、幸せに満ちたものに なるお役にでもたてれば、こんなに嬉しい事はありません。

 

ウラジーミル竹内先生私は大学入学時より、ウラジーミル竹内先生に教えていただきました。教えていただいた曲の中で一番大きな比重を占めるのはやはりロシアの作曲家達の曲です。 ラフマニノフ スクリャービン グラズノフ チャイコフスキー ・・・。 ピアニストでは、 ソフロニツキ ギレリス 達の演奏を愛していらっしゃいました。先生はいつでも事実を客観的に、言葉を選んでお話される方でした。それは深い洞察力とウィットに富んで楽しいものでした。何より楽しかったのは一緒に音楽の話をして、その音楽を共有する時間が持てた時でした。先生とのレッスンは思い出しますと覚めないで欲しい夢のような気持ちになります。

ウラジミール、ウラディーミル、竹ノ内、竹之内。至る所、様々な表記がされている先生のお名前ですが、戸籍上は「ウラジーミル竹内(たけのうち)」です。 大正8年10月5日、東京市麹町区三番町に長男として生まれます。 お父様は、竹内仲夫氏。ロシア憲法学者で、旧満州ハルピン学院の教授でした。 お母様は、エリザウ゛ェータ・イワノフナさん。帝政ロシアの旧貴族ご出身です。 昭和20年にカピトリーナ・ニコラエウナ・コピヨワさん(みんな、ママ先生と呼んでいます。)と結婚され、昭和29年にはアレクセイさん(アレクセイさんのホームページはこちらから)が生まれました。 ママ先生は今もご健在で、ピアニストであるアレクセイさんご夫妻と、アメリカ、ロサンゼルス近郊で暮らしていらっしゃいます。

平成15年2月25日ご自宅で倒れられ、午後9時5分搬送先の病院で亡くなりました。享年84才虚血性心不全でした。
先生と最後にお話したのは、亡くなる二日前の夜でした。ウィーンに留学されていた当時の思い出などを、二時間以上電話で熱く話していらっしゃいました。(この話はまた、書かせて頂きます。)

 

17歳の竹内先生先生が一番最初に習ったのは、ヴァイオリンでした。「どうして、僕だけ立って弾いていなければならないの?」という理由で、ピアノに変えたとおっしゃっていました。 豊増 昇 氏に師事した後、昭和12年5月~13年5月まで、オーストリアウィーンで、 エミール・フォン・ザウアー氏とワルター・ケルシュバーマー氏に師事。 昭和15年6月、 旧 満州 ハルピン音楽学校を卒業。 昭和15年10月~19年1月、 レオ・シロタ 氏 に師事。 ハルピン、長春などで戦前からリサイタル、放送等で活躍。戦後は、ショパン 百年祭(1949年)、ラフマニノフ 百年祭(1951年)などを旧満州で開催。 昭和28年帰国後の初リサイタルを、翌29年3月25日に、第一生命ホール で開催。同年4月から、東洋音楽大学 ( 現 国立音楽大学) の教授となる。
昭和61年3月に国立音楽大学を退職された後は、尚美学園大学の教授をされていました。 先生の教えは、数多くあります。私がまだ二十代の頃にはいつも、「美恵子さん、優しくね。」「丁寧に。」とおっしゃっていました。とても優しい先生でした。と同時に音楽にも、テクニックにも人間としても、常に本物を目指さなければならない。偽物は許さない 大変厳しい一面も持ち合わせていらっしゃいました。先生との音楽のお話は竹内先生の思い出で少しずつお話させていただく予定です。

 

永源 美恵子 Mieko Eigen